その後の発展への布石。二代目・亀太郎の時代

1890年(明治23年)~

金次郎の長男、亀太郎が家業を継いだのは1890年(明治23年)、16歳の時。すでに家業を継ぐ2年前から父に指導を受け、得意先まわり、集金など手伝いをしていた。亀太郎は非常な勉強家でもあり、家業の傍ら、東京高等商業学校(現一橋大)に入学する。当時の商人の子息は小学校の高等部を卒業したらすぐに働くのが常識だったというから、亀太郎の勉学への熱意、父・金次郎の懐の深さが垣間見れる。

明治38年頃の海岸通りの社屋近

明治末期の輸送に使われた
タンク・ワゴン 通称赤馬車

吉田橋付近から馬車道、
県庁方面を望む

しかし、1899年(明治32年)におきた大火によって丸井屋は全焼する。亀太郎は家業の復興に奔走することになり、学校も休学。結局、学校を卒業するまで7年の月日を要した。卒業後は丸井屋を経営しながら、内外貿易合資会社、岩崎銅商社に勤めるといった多忙な日々だったが、そこで輸出入業務をも学ぶ。亀太郎はこれだけの激務の中でも、好きな柔道やボート、テニス、乗馬を楽しんでいたというから、そのパワーには驚きである。亀太郎も金次郎と同じように意思強固で寡黙。しかし、一度信用すれば誠心誠意、相手に尽くす人間だったという。

復興に燃える亀太郎にチャンスが訪れた。ライジングサン社から石油輸送を依頼されたのである。設立間もないこの会社は、今日の昭和シェル石油の前身であったサミエル商会によって興された。当時、石油は缶に入れられて運搬されていたが、この石油缶が船体に当たって破損することが多々あった。そこで亀太郎は運搬用モッコに目をつけ、缶が船体に当たらないようにしたり、荷役のノウハウを持ったベテランを要所に配し、石油缶の破損率を下げることに成功。この実績によりライジングサン社の信頼を得ていく。そして1909年(明治42年)、東京の深川万年町に石油の貯蔵所ができた。石油はタンク馬車で東京へ輸送される。亀太郎は京浜地区にあった3台のタンク馬車を譲り受けることになり、これが陸運事業への始まりとなる。

Close