関東大震災と金融恐慌を乗り越えたが、戦争の影が忍び寄り始める

1923年(大正12年)~

1923年9月1日昼、突然、腹わたに染み渡るような地響きとともに、大地が揺れ始めた。関東大震災(マグニチュード7.9)の発生である。神奈川県下の被害だけでも、全壊6万6,366戸、全焼6万4,753戸、未曾有の大災害だった。亀太郎一家はこの時、被害が比較的軽微だった本牧の自宅におり、大きな影響を受けることを免れた。だが、1918年(大正7年)、合資会社として設立されたばかりの上野回漕店に対する影響は、大きいものに。幸い社員は全員無事だったが、海岸通りにあった事務所と倉庫、吉田町の旅館丸井屋は倒壊した。ライジングサン社の社屋も倒壊し、平沼油槽所は火事で焼失。それにより、ライジングサン社は一時期、神戸に本社を移さざるを得なかった。関東での仕事は、丸の内に事務所を移して、摘発油、パラフィンなどを中心に再開することになった。同じく被害を受けた上野回漕店も、大村組の事務所を間借りしての困難な営業である。亀太郎は、このような状況下においても、横浜復興協会のメンバーに加わり、復興への道を切り開くために奔走した。

しかし、1899年(明治32年)におきた大火によって丸井屋は全焼する。亀太郎は家業の復興に奔走することになり、学校も休学。結局、学校を卒業するまで7年の月日を要した。卒業後は丸井屋を経営しながら、内外貿易合資会社、岩崎銅商社に勤めるといった多忙な日々だったが、そこで輸出入業務をも学ぶ。亀太郎はこれだけの激務の中でも、好きな柔道やボート、テニス、乗馬を楽しんでいたというから、そのパワーには驚きである。亀太郎も金次郎と同じように意思強固で寡黙。しかし、一度信用すれば誠心誠意、相手に尽くす人間だったという。

復興に燃える亀太郎にチャンスが訪れた。ライジングサン社から石油輸送を依頼されたのである。設立間もないこの会社は、今日の昭和シェル石油の前身であったサミエル商会によって興された。当時、石油は缶に入れられて運搬されていたが、この石油缶が船体に当たって破損することが多々あった。そこで亀太郎は運搬用モッコに目をつけ、缶が船体に当たらないようにしたり、荷役のノウハウを持ったベテランを要所に配し、石油缶の破損率を下げることに成功。この実績によりライジングサン社の信頼を得ていく。そして1909年(明治42年)、東京の深川万年町に石油の貯蔵所ができた。石油はタンク馬車で東京へ輸送される。亀太郎は京浜地区にあった3台のタンク馬車を譲り受けることになり、これが陸運事業への始まりとなる。

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