戦後の混迷から脱却。昭和シェルとソールエージョント契約を結び飛躍へ

1941年(昭和16年)~

関東大震災、昭和の金融大恐慌を乗り越えた上野運輸商会に新たな試練となったのが、1941年に勃発した太平洋戦争だった。同年、軍の石油輸送のために拠点を横浜から瀬戸内・糸崎油漕所に移すことに。ライジングサン社は営業停止になり、財産は敵産管理となった。上野運輸商会は、ガソリンの内航輸送全国一という実績を買われ、戦時統合を免れて陸軍航空本部の命令により航空燃料を岩国、野田へ運んだのである。

亀太郎の長男・豊は、1937年(昭和12)年に横浜高商を卒業して、上野運輸商会に入社した。だが、仕事を覚える間もなく翌年に陸軍に入隊。陸軍船舶高射砲連隊の将校として数々の戦地を転戦した後、帰国。1943年(昭和18年)、大尉に進級し広島で軍務についていた時に操夫人と結婚し、家族で広島市巳斐町に移り住んだ。そして、1945年(昭和20年)8月6日、原爆が投下され、豊は爆心地から5キロ地点にいた。自宅から五日市へと爆雷演習の視察に向かう途中、「死の灰」を浴びたのである。命を落とすことはなかったが、あと1キロ近かったら危なかった。その後、豊は原爆症によって発熱などの影響を受けたが、幸いに1年後に回復に向かった。

終戦後、石油配給統制会社から仕事が来るまでの1年間、豊は自ら大阪へ行き、鮮魚輸送に専心。現金収入を得るため、家族、会社を支えるために尽力する。戦後の事業飛躍への道はシェル石油のソールエージェントとなることから始まった。1948年(昭和23年)、上野運輸商会はライジングサン社から社名変更(48年10月)したシェル石油から日本における石油類輸送全般のソールエージェント契約の内示を受け、戦前からのお得意先であるシェル石油一本に全力投球するため、前年に設立された鶴見輸送の経営(上野豊は取締役で参画)から退き、同時にそれまで使っていたスタンダードの艀を返船。上野運輸商会は戦時中、敵産管理となっていたシェル石油とスタンダードの船と艀の運行を任され、十分な管理をしていた。その上に戦前からの信用があり、上野亀太郎が英軍捕虜に差し入れをしたことも後にシェル石油幹部の耳に入り、上野運輸商会が49年にソールエージョエントに起用された。上野豊は、今もその契約書にサインをし、東京駅前のレストランで知人と乾杯をしたときの嬉しさを今も忘れていないという。

1950年(昭和25年)には、シェル石油専属でトラック輸送も始め、これが今日のタンクローリーで日本第2位の陸上輸送会社につながっていくのである。

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