• HISTORY / 上野グループの歴史
  • 幾多の危機をイノベーションの連続で乗り越え、成長してきた上野グループ。
    横浜開港にはじまる激動の時代とともに歩んだ150年を超える歴史をご紹介します。
1869年(明治2年)
上野金次郎、横浜で回船問屋「丸井屋」を創業
幕末という時代の転換期。それまで一漁村すぎなかった横浜は、瞬く間に外国人が3,000人も住み暮らす国際貿易都市に変貌した。

明治維新とともに発展してきた横浜は、外国の商館がひしめく貿易の中心地となる。その横浜に1869年(明治2年)、後の上野運輸グループの源流となる、船荷取扱所兼旅人宿「丸井屋」が、吉田町野毛橋(現都橋)のたもとに誕生した。

創業者である上野金次郎は伊予国宇摩郡上野村(現愛媛県宇摩郡土居町)の出身。幕末期に神奈川台場で湾岸警備にあたっていたのが伊予松山藩だった。自然と横浜の繁栄ぶりが伝聞し、それがきっかけとなったのか、金次郎は伊予松山藩がおこなった台場工事に参加している。肌で横浜の新しい息吹を感じた金次郎は一度帰郷した後、再び横浜へ――。事業への先見の明があった金次郎ならではの選択であった。

丸井屋の事業は房総沿岸との交易物資の取り次ぎ、船乗りや船客の宿泊宿の経営であった。当時、急激に増えた横浜の人口をまかなうめに、食料品などの生活物資は五大力船という帆船で房総から運んでいた。創業当初の丸井屋は乗船客相手の宿であったが、金次郎は増大する生活物資輸送に着目し、回船問屋を始めた。やがて横浜を軸に東京湾内、駿遠、三陸まで事業を拡大していくことになる。

積極的で人望厚い金次郎は、しだいに船荷取扱業務の依頼を着実に増やしていった。さらに吉田町他21カ町合同で設立された「旅館下宿業組合」の組合長に選ばれるなど、金次郎は事業の拡大だけに止まらず横浜の発展にも貢献したのである。
海岸通りから横浜港全景を望む
明治10年代の横浜駅付近
1890年(明治23年)
上野亀太郎、家業を継承
金次郎の長男、亀太郎が家業を継いだのは1890年(明治23年)、16歳の時。すでに家業を継ぐ2年前から父に指導を受け、得意先まわり、集金など手伝いをしていた。亀太郎は非常な勉強家でもあり、家業の傍ら、東京高等商業学校(現一橋大)に入学する。当時の商人の子息は小学校の高等部を卒業したらすぐに働くのが常識だったというから、亀太郎の勉学への熱意、父・金次郎の懐の深さが垣間見れる。

しかし、1899年(明治32年)におきた大火によって丸井屋は全焼する。亀太郎は家業の復興に奔走することになり、学校も休学。結局、学校を卒業するまで7年の月日を要した。卒業後は丸井屋を経営しながら、内外貿易合資会社、岩崎銅商社に勤めるといった多忙な日々だったが、そこで輸出入業務をも学ぶ。亀太郎はこれだけの激務の中でも、好きな柔道やボート、テニス、乗馬を楽しんでいたというから、そのパワーには驚きである。亀太郎も金次郎と同じように意思強固で寡黙。しかし、一度信用すれば誠心誠意、相手に尽くす人間だったという。

復興に燃える亀太郎にチャンスが訪れた。ライジングサン社から石油輸送を依頼されたのである。設立間もないこの会社は、今日の昭和シェル石油の前身であったサミエル商会によって興された。当時、石油は缶に入れられて運搬されていたが、この石油缶が船体に当たって破損することが多々あった。そこで亀太郎は運搬用モッコに目をつけ、缶が船体に当たらないようにしたり、荷役のノウハウを持ったベテランを要所に配し、石油缶の破損率を下げることに成功。この実績によりライジングサン社の信頼を得ていく。そして1909年(明治42年)、東京の深川万年町に石油の貯蔵所ができた。石油はタンク馬車で東京へ輸送される。亀太郎は京浜地区にあった3台のタンク馬車を譲り受けることになり、これが陸運事業への始まりとなる。
明治38年頃の海岸通りの社屋近
明治末期の輸送に使われた
タンク・ワゴン 通称赤馬車
吉田橋付近から馬車道、
県庁方面を望む
1900年(明治33年)
昭和シェル石油の前身ライジングサン石油の石油輸送開始
1909年(明治42年)
タンク馬車で灯油の輸送を開始
1918年(大正7年)
合資会社「上野回漕店」に改組
1923年(大正12年)
関東大震災の発生。海岸通りにあった上野回漕店の事務所と倉庫、吉田町の旅館丸井屋は倒壊
1923年9月1日昼、突然、腹わたに染み渡るような地響きとともに、大地が揺れ始めた。関東大震災(マグニチュード7.9)の発生である。神奈川県下の被害だけでも、全壊6万6,366戸、全焼6万4,753戸、未曾有の大災害だった。亀太郎一家はこの時、被害が比較的軽微だった本牧の自宅におり、大きな影響を受けることを免れた。だが、1918年(大正7年)、合資会社として設立されたばかりの上野回漕店に対する影響は、大きいものに。幸い社員は全員無事だったが、海岸通りにあった事務所と倉庫、吉田町の旅館丸井屋は倒壊した。ライジングサン社の社屋も倒壊し、平沼油槽所は火事で焼失。それにより、ライジングサン社は一時期、神戸に本社を移さざるを得なかった。関東での仕事は、丸の内に事務所を移して、揮発油、パラフィンなどを中心に再開することになった。同じく被害を受けた上野回漕店も、大村組の事務所を間借りしての困難な営業である。亀太郎は、このような状況下においても、横浜復興協会のメンバーに加わり、復興への道を切り開くために奔走した。
1926年(大正15年・昭和元年)
合名会社「上野運輸商会」に改組
1932年(昭和7年)
横浜~柳島で石油のバラ積み輸送開始
1941年(昭和16年)
陸軍航空本部の指令により瀬戸内海で航空燃料を輸送
1946年(昭和21年)
石油配給統制会社のもとで、西日本各地に石油を輸送
1948年(昭和23年)
シェル石油の製品の海上輸送を再開、また、同社から外国船バンカーのソウルエージェントを委託
関東大震災、昭和の金融大恐慌を乗り越えた上野運輸商会に新たな試練となったのが、1941年に勃発した太平洋戦争だった。同年、軍の石油輸送のために拠点を横浜から瀬戸内・糸崎油漕所に移すことに。ライジングサン社は営業停止になり、財産は敵産管理となった。上野運輸商会は、ガソリンの内航輸送全国一という実績を買われ、戦時統合を免れて陸軍航空本部の命令により航空燃料を岩国、野田へ運んだのである。
亀太郎の長男・豊は、1937年(昭和12)年に横浜高商を卒業して、上野運輸商会に入社した。だが、仕事を覚える間もなく翌年に陸軍に入隊。陸軍船舶高射砲連隊の将校として数々の戦地を転戦した後、帰国。1943年(昭和18年)、大尉に進級し広島で軍務についていた時に操夫人と結婚し、家族で広島市巳斐町に移り住んだ。そして、1945年(昭和20年)8月6日、原爆が投下され、豊は爆心地から5キロ地点にいた。自宅から五日市へと爆雷演習の視察に向かう途中、「死の灰」を浴びたのである。命を落とすことはなかったが、あと1キロ近かったら危なかった。その後、豊は原爆症によって発熱などの影響を受けたが、幸いに1年後に回復に向かった。
終戦後、石油配給統制会社から仕事が来るまでの1年間、豊は自ら大阪へ行き、鮮魚輸送に専心。現金収入を得るため、家族、会社を支えるために尽力する。戦後の事業飛躍への道はシェル石油のソールエージェントとなることから始まった。1948年(昭和23年)、上野運輸商会はライジングサン社から社名変更(48年10月)したシェル石油から日本における石油類輸送全般のソールエージェント契約の内示を受け、戦前からのお得意先であるシェル石油一本に全力投球するため、前年に設立された鶴見輸送の経営(上野豊は取締役で参画)から退き、同時にそれまで使っていたスタンダードの艀を返船。上野運輸商会は戦時中、敵産管理となっていたシェル石油とスタンダードの船と艀の運行を任され、十分な管理をしていた。その上に戦前からの信用があり、上野亀太郎が英軍捕虜に差し入れをしたことも後にシェル石油幹部の耳に入り、上野運輸商会が49年にソールエージョエントに起用された。上野豊は、今もその契約書にサインをし、東京駅前のレストランで知人と乾杯をしたときの嬉しさを今も忘れていないという。
1949年(昭和24年)
シェル石油全製品の海上輸送を委託
1950年(昭和25年)
タンクローリーによる陸上輸送を開始
1955年(昭和30年)
戦後初の内航船「第一赤貝丸」(黒油1850キロリットル積)建造
1957年(昭和32年)
日本最大の内航船「黒貝丸」(黒油4000キロリットル積)建造
1959年(昭和34年)
初のケミカル専用船「第一日乃出丸」建造
1960年(昭和35年)
LPGローリー稼働、車両保有台数100台突破
1961年(昭和36年)
石油販売部門として「旭日通産」設立
1962年(昭和37年)
ケミカル部門を分離し、「上野ケミカル運輸」設立
1965年(昭和40年)
1号店給油所を鎌倉市に開業
1966年(昭和41年)
上野豊、社長に就任
1969年(昭和44年)
シェル石油から防衛庁の納入代行業務を委託
1971年(昭和46年)
「伊勢湾防災」設立、海上防災業務を開始
1975年(昭和50年)
株式会社上野運輸商会に改組
上野豊、国際ロータリー第259地区ガバナーに就任
1977年(昭和52年)
シンガポールに「オクサリス・シッピング」設立
1979年(昭和54年)
上野豊、横浜商工会議所会頭就任
1981年(昭和56年)
陸上輸送部門を分離し、「上野輸送」を設立
1983年(昭和58年)
上野豊、全国内航タンカー海運組合会長就任
1987年(昭和62年)
上野孝、社長に就任
住友海上・上野共同ビル竣工、本社を移転
1988年(昭和63年)
第1上野ビル竣工、グループ各社の事務所移転
1991年(平成3年)
上野マリン・サービス、サウジアラビア緊急援助隊として油濁防除作業に従事
1997年(平成9年)
国内初の6000キロリットル積タンカー「そうび丸」竣工
1998年(平成10年)
上野運輸商会と上野ケミカル運輸を統合し、「上野トランステック」を設立
昭和シェル石油、平和汽船との合弁会社「ジャパンオイルネットワーク」を設立
「オクサリス・ホンコン」設立。本国国際新空港向けの航空燃料輸送を開始
1999年(平成11年)
横浜市・環状二号線沿いの3,400m2(1053坪)という広大な敷地に日本初の乗用車専門大型ガソリンスタンド「横浜ベース」開業
2000年(平成12年)
上野トランステック、輸送基盤強化のため平和汽船株式会社の営業権を取得
2001年(平成13年)
上野トランステック、社外取締役を招聘
上野孝、国際ロータリー第2590地区ガバナーに就任
2002年(平成14年)
上野トランステック、内航業界初の石炭灰船「碧南丸」運航開始
上野トランステック横浜本社、上野興産、上野ホールディング第1上野ビルに移転
上野豊自伝「多くを生きる」出版
2003年(平成15年)
上野孝代表取締役CEOが全国内航タンカー海運組合の会長就任(6月17日)
上野孝代表取締役CEOが平成15年『海の日』海事関係功労者大臣表彰を受賞(7月20日)
富山事業所新設。営業開始(10月1日)
Uyeno Safety Academy 開校(10月15日)
SAP稼働開始(11月1日)
2004年(平成16年)
中部上野輸送、西日本上野輸送、九州上野輸送を統合(4月1日)
上野トランステック(株)陸運カンパニー事務所移転(5月1日)
上野トランステック、シンガポールにショクユタンカーとの合弁会社「SU Navigation Pte. Ltd.」を設立(11月1日)
2005年(平成17年)
上野トランステック、大光船舶(株)の株式の65%を日触物流(株)より取得(4月30日)
上野トランステック、韓国のHana Marine Co., Ltd. と小型外航ケミカルタンカー会社「Uyeno Hana Transia S.A.」を設立(9月27日)
2006年(平成18年)
上野トランステック、フィリピンのTransnational Diversified Corp.と「Transnational Uyeno Maritime Inc. (TUMI)」を設立。
ダブルハルタンカーをフィリピンに初めて導入。(6月15日)
2007年(平成19年)
SES1(スーパーエコシップフェーズ1)ケミカルタンカー「第五日光丸」竣工(5月31日)
2009年(平成21年)
陸運事業会社、4社を統合し上野輸送(株)をスタート
旭日通産(株)の事業をリーフエナジー(株)に事業譲渡
(株)旭洋の事業をリーフエナジー(株)へ旭日通産リテール
販売(株)の事業を中川石油(株)へ運営移管を実施
2011年(平成23年)
Transnational Uyeno Solar Corporationが上野グループ最初のソーラー施設をフィリピンで建設
2012年(平成24年)
伊勢湾防災(株)伊良湖エスコート業務100,000件無事故、無災害達成
上野グリーンソリューションズ(株)営業開始
2013年(平成25年)
上野グループ国内初の太陽光発電所を苫小牧に建設
上野グループ国内初のメガソーラー発電所を茨城県稲敷市に建設
エヌ・シー・ユー物流(株)の全株式取得
2017年(平成29年)
DLT ENTERPRISE PTE.LTD.の株式取得
TRANSNATIONAL UYENO SAFETY ACADEMY INC. 設立
2018年(平成30年)
シェルケミカルズジャパン(株)の全株式取得
オクサリスケミカルズ(株)発足
コンテナ事業と倉庫事業の拡充を目指し上野ロジケム(株)を発足
2019年(平成31年)
オクサリスケミカルズ(株)とジャパンケムテック(株)が合併し、新生「オクサリスケミカルズ(株)」発足
2020年(令和2年)
上野トランステック(株)、上野ロジケム(株)、エヌ・シー・ユー物流(株)、オクサリスケミカルズ(株)上野グリーンソリューションズ(株)の本社と上野輸送、上野興産の一部機能を「霞が関ビルディング」に移転
2021年(令和3年)
上野トランステック(株)エヌ・シー・ユー物流(株)の内航ケミカル船事業を上野ロジケム(株)に集約し、同社に海運事業部を発足
海洋環境部門の上野マリン・サービス(株)、中部マリン・サービス(株)、伊勢湾防災(株)の3社を統合し、上野マリタイム・ジャパン(株)がスタート
上野興産(株)を上野グループホールディングス(株)へ社名変更